2015年12月4日金曜日

大倭神社と埼玉の神社


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪大倭神社と埼玉の神社≫

 〇大倭神社(大宮区三橋)

  宗教法人大倭神社

   御祭神:素盞嗚尊、倉稲魂命、應神天皇、

       伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日孁貴命、
 
       猿田彦命、建御名方命、市杵嶋姫命、

       保食命、菅原道真公、天照大御神、
 
       奥津比古命、日本武尊、少彦名命
 
  御由緒:当社は古来氷川神社と稱し、

      其由緒に関しては正確な資料は無いが、

      口碑の伝へによると、

      景行天皇の御代日本武尊が東征の途次、

      当地に足を駐め、

      素盞嗚尊を奉祀したと云はれ

      其後徳川時代正徳年間(1711~15)に

      時の地頭安藤治右ヱ門、代官中村左ヱ門、

      祢宜刑部等、力を合せ祠堂を横へ、

      神苑を埋めたりと稱せられ、

      明治六年(1873)四月村社となった。

      明治丗九年(1906)神社合祀令の発布により

      明治四十年地内大字本村無格社稲荷社、

       大字西谷津無格社八雲社境内社三峯社、

       字扇島無格社稲荷社、字下手無格社八幡社、

       字八幡下無格社八幡社、字神明無格社神明社、

       仝庚申社、字西耕地無格社須賀社、

       仝境内社諏訪社、同字無格社嚴島社、

       字花ノ木無格社庚申社、仝稲荷社、

       同村大字側ヶ谷戸字間ノ谷村社天神社、

       仝境内社神明、荒神、御嶽、疱瘡合社、

       仝稲荷社仝三峯社の十七社を合祀。

       明治四十三年(1910)四月氷川社の社号を

       大倭神社と改称す。

  ※石碑神社合祀記
   神社ぐだぐだ参拝録

  大宮市指定有形民俗文化財 大倭神社の庚申塔
 
   所在地 大宮市三橋六-四一一
 
   指 定 昭和四十八年一月五日
 
  この辺りは江戸時代には上下内野村と呼ばれていた地域で、

  ここには村の鎮守である氷川神社が祀られています。

  明治四十年に村内の社を合祀し、

  同四十三年に社名を大倭神社と変更、現在に至っています。
 
  平安時代頃から宮中で行われていた庚申信仰は、

  江戸時代になって庶民の間に広まります。

  六十日に一回の庚申の日に寄り合い信仰を行いますが、

  心づくしの料理を持ち寄っての

  庚申信仰は大きな楽しみでもあったことでしょう。

  この庚申塔は、

  江戸時代中期の享保六年(1721)三月に

  当村上組の人々により造立されたもので、

  二五六cmの高さ、造形美などで市内で最も優れた

    庚申塔です。

  青面金剛像が傘の上に坐し、

  塔身中央には愛らしい二童子が彫られています。
  
  現在は、氏子総代が年末に注連縄を張り替え、

  お守りされています。

  将来にわたり伝えていきたい庚申塔です。
 
  昭和六十三年三月。

 〇氷川神社:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
  由緒:氷川神社は社記によると今から凡そ二千有余年、
     
     第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と

     伝えられます。

     御祭神、須佐之男命は天照大御神と月読命とともに

     伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、

     八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として

             知られております。
    
     大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を

     天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)に御譲りになられた

     国土経営の神です。

     稲田姫命は須佐之男命の御妃で

             大己貴命の御母神です。

     この御三神をここにお祀りされたのは

     国土経営、民福安昌祈願のためであって、

     大和朝廷の威光が東方に及ぶにつれて、

     当神社の地位も重くなったと考えられています。

     神社の鎮座する地は、大宮台地の上にあり、

     その中でも鼻のように高く突き出た位置にある為、

     一帯の地名は高鼻町と呼ばれます。

     かつて神社の東側には見沼と呼ばれる

             広大な湖沼があり、

     豊かな土壌を形成する元となっておりました。

     「神沼」、「御沼」とも呼ばれた見沼は

     正に豊かな恵みを与えて下さる

             神聖な水をたたえた湖沼で、

     江戸時代に開発された見沼溜井は周囲約39キロに及ぶ

     大貯水池でした。

     現在境内にある神池は見沼の名残であるといわれ、

     神域の蛇の池からの湧水が豊富に注がれております。

     地理的な点から見ても、見沼をひかえ土地は肥沃で

     東西南北に交通の便もよく、人々は益々繁栄し

     今日の基をなすに至ったものと思われます。

     第十二代景行天皇の御代、

             日本武尊は当神社に御参拝し

     東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっております。

     第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が

     朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇し、

     善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を

     高めたと伝わります。

     今から凡そ千二百年前の聖武天皇の御代には

     武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された

     延喜式神名帳には名神大社として、

     月次新嘗案上の官幣に預かり、

     又臨時祭にも奉幣に預かる等、

     歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました。

     また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等

     相次いで当社を尊仰し、治承四年源頼朝公が

     土肥次郎実平に命じて社殿を再建、

     文禄五年八月には徳川氏が

             伊奈備前守忠次を奉行として

     社頭残らずを造営せしめ、

     寛文七年三月には阿部豊後守を奉行として

     社殿の建立をしております。

 〇中川・諏訪神社さいたま市見沼区中川

  〇日進神社さいたま市北区日進町

   境内では毎年除夜の鐘が厳寒の空に響きわたるころから、

   「日進餅つき踊り」として市の指定(無形民族文化財)を

   受けている伝統ある餅つき踊りが威勢よく始められる。 

  〇武国(ぶこく)神社さいたま市北区奈良町

  〇南方神社さいたま市北区吉野町

  〇東光神社埼玉県吉見町江和井

  〇八雲神社埼玉県北本市石戸





   

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