2015年5月13日水曜日

儒家の祖「孔子」

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  《課題》 孔子は和人〔倭人〕の社会習性を理想とした
     ―堯舜の賢政は和人の思想―

 儒家の祖「孔子」
 儒家の祖「孔子」;


 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)

 王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出 故天性柔順

 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種 曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・

 白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷 ※「故孔子欲居九夷也」

 昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德 夷人始畔 

 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐 諸夷内侵 

 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔 三百餘年 

 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土

 及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄 周公征之 

 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號 乃率九夷以伐宗周 

 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯 命徐偃王主之 偃王處潢池東 

 地方五百里 行仁義 陸地而朝者三十有六國 穆王後得驥騄之乘 

 乃使造父御以告楚 令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 

 偃王仁而無權 不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 

 百姓隨之者以萬數 因名其山爲徐山 厲王無道 淮夷入寇 

 王命虢仲征之 不克 宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵

 至齊桓修霸 攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰

 遂陵暴諸夏 侵滅小邦

 秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰 

 燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之 於是東夷始通上京 

 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢 時遼東太守祭肜威讋北方 

 聲行海表 於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻 故章・和已後 使聘流通 

 逮永初多難 始入寇鈔 桓・靈失政 漸滋曼焉

 自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土 

 可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆 

 所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者 

 猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云

 『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、

 「東方を夷(い)と曰う」と。 

 「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。 

 仁にして好生、

 萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。 

 故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。

 君子・不死の國有るに至る。(参照:「山海經」) 夷に九種有り。

 畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・黄夷(こうい)・

 白夷(はくい)・赤夷(せきい)・玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・

 陽夷(ようい)と曰う。 

 ※「故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり」。

 昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。 

 暘谷(ようこく)と曰う。

 蓋(けだ)し日の出ずる所なり。

 夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。

 少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より世に王化に服し

 遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。 

 桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。

 殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、伐ちてこれを定む。

 仲丁(ちゅうてい)に至り、藍夷(らんい)は寇を作(な)す。

 これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。

 武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。 

 遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、

 漸(ようや)く中土に居す。

 武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、

 肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。

 管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、

 すなわち夷狄(いてき)を招誘す。

 周公これを征し、遂に東夷を定む。 

 康王の時、肅慎また至る。

 後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、

 すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、

 西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。

 穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、

 すなわち東方諸侯を分かち、

 徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。

 偃王は潢池(こうち)の東に處す。

 地の方は五百里。

 仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。

 穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。

 すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、

 以って楚に告げて徐を伐たしむ。

 一日にして至る。

 ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。

 偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。

 故に敗を致す。

 すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。

 百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。

 因りてその山の名を徐山と爲す。

 厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。

 王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。

 宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。

 幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。

 齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、

 攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。

 楚靈(=楚の靈王)、申(しん)に會するに及び、

 また來り盟に豫(あずか)る。

 後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、

 遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。

 秦は六國を并せ、

 その淮(わい)・泗(し)の夷は皆な散じて民戸と爲す。

 陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。

 燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、

 因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。

 武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、ここに東夷は始めて上京に通ず。

 王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。

 建武の初め、また來たり朝貢す。

 時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、

 威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。

 ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は萬里朝獻す。

 故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、

 使聘(しへい)流通す。

 永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。

 桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、

 漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。

 中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、

 四夷來賓す。

 時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。

 故に國俗風土を略記するを得る可し。

 東夷は率(おおむね)皆な土著(どちょ/土地につく=定住)にして

 飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。

 器に俎豆(そとう)を用う。

 所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、これを四夷に求むる者なり。

 凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・

 狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、

 なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。

 ※出典:(古代史獺祭 : こだいし だっさい)


 史記・夏本紀第二(抜粋)

 太史公曰:禹為姒姓,其後分封,用國為姓,故有夏后氏、有扈氏、

 有男氏、斟尋氏、彤城氏、襃氏、費氏、杞氏、繒氏、辛氏、

 冥氏、斟氏、戈氏。

 ※「孔子正夏時」,學者多傳夏小正雲。自虞、夏時,貢賦備矣。

 或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。

 會稽者,會計也。

 太史公が夏王朝の記事を終えるにあたり、総論していうには、

 禹は姒姓であったがその子孫は分封せられて諸侯となり、

 それぞれの国名をもって姓とした。

 それ故に、夏后氏・有扈氏・有男氏・斟尋氏・彤城氏・襃氏・

 費氏・杞氏・繒氏・辛氏・冥氏・斟氏・戈氏がある。

 ※「孔子は夏の時を正しとす。」

 学者は多く夏小正を傳ふと云ふ。

 虞夏の時より、貢賦備はれり。

 或は言ふ、禹、諸侯を江南に會し、功を計りて崩ぜり。

 因りて焉に葬る。

 命じて會稽と曰ふ。

 會稽とは會計なり、と。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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