2015年5月13日水曜日

封禅書(15)

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑫

 〔秦の時の祭り〕

  昔三代(夏・殷・周)の都は、皆黄河と洛水の辺りに置かれた。

 従って嵩高(嵩山)を中嶽として、四嶽は夫々その方向のままにあたり、

 四瀆はすっかり山東にあった。

 秦が帝と称して威陽に都を置くことになると、五嶽・四瀆ともに

 すっかり東方にあることになった。

 五帝から秦まで、かわるがわる帝王が興っては衰えたため、

 名山大川は、諸侯の領地にはいったこともあり、

 天子の域内にはいったこともあって、

 それを祀る礼を、鄭重にしたり簡略にしたりする仕方も、

 時代ごとに異なっているので、一々ここに書くわけにはいかない。

 しかし、秦が天下を併合してからは、祠官が常々奉じている

 天地・名山・大川・鬼神をば次第づけることができるようにした。

  その次第は、殽(崤山、河南省澠池県の西南)より東には、

 名山が五つと、大川の祠が二つ。

 〔五つの名山とは〕太室、

 ―太室とは嵩高のこと―恒山、泰山、会稽山、湘山、

 〔二つの〕川とは済水(その祠は臨邑)・淮水(その祠は平氏県)、である。

 春にはほじしと酒を供えて豊年であるように祭りをし、

 そのついでに氷のとける祭りをする。

 秋には氷の張る祭りをし、冬には神の恵みに感謝を捧げるお祭りをする。

 その生贄には、牛と子牛と各々一頭ずつ用いるが、

 生贄の揃え方と珪幣とには各々違いがある。

  華(華山、陝西省華陰県の南)より西には、名山が七つ、名川が四つ。

 〔七つの名山とは〕華山、

 薄山、―薄山とは衰山(襄山?陝西省潼関県の北?)のこと―

 岳山(陝西省武功県にある?)、岐山(陝西省岐山県の真北)、

 呉岳(汧山、陝西省汧陽県にある)、

 鴻冢(後にみえる黄帝の臣の大鴻の葬られた山?)、

 瀆山、―瀆山とは蜀の汶山(四川省茂県の東南)のこと―であり、

 〔四つの〕川とは、河(黄河)―臨晋(陝西省大茘県)で祭る―、

 沔(漢水に注ぐ川)―漢中(秦漢のときの郡、陝西省南鄭県の辺り)で祭る―、

 湫淵―朝那(陝西省南鄭県)で祭る―、江水―蜀で祭る―、である。

 また春と秋の、氷が解ける祭りと氷が張る祭りや、

 〔冬に〕神の恵みに感謝を捧げる祭りは、

 東方の名山大川〔を祭る場合〕と同様にするので、

 生贄の揃え方と珪・幣とには各々違いがある。

 しかし、四つの大きな冢(山の頂きのことという)である

 鴻と岐と呉と岳とには、皆新穀が供えられる。

 陳宝〔の神〕が季節に応じてやってくれば、お祭りをする。

 河〔を祭る〕には〔他の三川の場合の供え物に〕加えて、

 濁り酒が供えられる。

  以上は皆雍州の域内のあって、天子の都に近いから〔祭りには〕

 車一乗と、黒いたてがみの赤馬四頭が加えられる。

 灞・産・長水・澧・澇・涇・渭(皆陝西省の川)は、

 どれも大川というわけではないが、咸陽に近いために、

 皆山川の祭りになおぞらえることはできるが、

 〔車や馬など〕いろいろと加えることはしない。

 汧・洛・二淵・鳴沢・蒲山・嶽しょ山の類は、小さな山川であるが

 やはり皆、毎年、神の恵みに感謝する祭りや氷が溶け氷が張る祭りをする。

 ただその礼は同じであるとは限らない。

  また雍には、日月・参辰(オリオンとアンタレス)・南北斗・熒惑(火星)・

 太白(金星)・歳星(木星)・填星(土星)・二十八宿・風伯(風の神)・

 雨師(雨の神)・四海(四方の境域)・

 九臣十四臣(九臣六十四臣?漢旧儀にみえる九皇六十四民のこと?)・

 数々の布(星を祀る場所のこと?)数々の荘(ちまた)・

 数々の述(遂? 田に水を引く溝)といった類の、百」にも余る廟がある。

 西(漢の時の西県。甘粛省天水姸の西南二十里。秦の非子がいた犬丘)

 にも数十の祠があり、湖(漢の時の湖県。河南省閿郷県の東四十里)には

 周の天子の祠があり、下邽(漢の時の県。陝西省渭南県の東北五十里)に

 天神〔の祠〕があり、澧・滈(ともに陝西省を流れる川)に

 昭明(昭明星の祠)と天子の辟雍の池があり、

 杜亳(陝西省西安県の東南、杜陵県の亳亭)には杜主の祠が三つと、

 寿星(南極老人星、カノーブス)祠があり、雍の菅廟(?)にも杜主がある。

 杜主は、もとの周の右将軍である。

 これらは秦の土地ではもっとも格式の低い鬼神ながら、

 霊顕あらたかなものであるから、毎年、四時に祭りを捧げる。


  ただ雍の四つの時で祭る上帝こそ、とうといものとされる。

 またその光景が人民を感動させるという点では、あの陳宝である。

 そこで雍の四つの時では、春には豊年を祈り、

 因みに凍りの解ける祭りをし、秋に氷の張る祭りをし、

 冬に神への感謝の祭りをする。

 五月に駒を生贄にして祭るときも、四季の仲月に行う祭りの時も、

 毎月の祭りと同様にする。

 一方、陳宝は、季節に応じてやって来た時に祭りをし、

 春と夏には赤馬を生贄に用いる。

 時でする祭りに、駒は四匹、木彫りの、竜四頭を駕した車は一台、

 夫々お祭りする帝の色にあわせる。

 黄色の子牛と子羊各々の四頭、珪と幣にも各々数の決まりがある。

 生贄は皆生埋めにするのであって、俎豆が整えられることはない。

  三年に一度郊の祭りをする。

 秦は冬の十月を年の初めとしたので、例年、十月も上旬のうちに、

 〔天子が親しく〕郊の祭りをして〔天帝に〕まみえるのである。

 松明を点々とともし、威陽の近くで拝し、衣(うわぎ)は白い色を尊び、

 その時のお供えは平常の祭りと同様にするという。


  西畤(西の祭壇、秦の襄公が作って白帝を祭った)での祭りと

 畦畤(韮ばたけのような祭壇、秦の献公が作って白帝を祭った)

 での祭りとは、祭り方は昔からのしきたりの通りにするが、

 天子が親しく出向きはしない。

 いくつものこの種の祭りは、皆いつも太祝(祭りを司る者)が執り行い、

 毎年の四時に祭りを捧げる。

 このほかの名山大川や、諸々の鬼神及び八神の類となると、

 天子が立ち寄った時に祭り、立ち去ればやめる。

 郡県にあって都から遠い神祠は、民が思い思いに祭りを捧げるにまかせ、

 天子の祝官に管理させない。

 祝官のなかに秘祝がいて、もしも災いの兆しが現れた時は、

 その度にお祈りして、罪を下々に移すのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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