2015年5月7日木曜日

封禅書(14)

 浦和レッズレディース
 『ひねもす至福の時』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑪

 〔秦の末年〕

  その翌年、始皇は再び海岸地帯を旅行し、琅邪まで来て、

 恒山を通って上党(秦の時の郡、山西省の東南部)から帰った。

 3年の後、碣石(河北省海辺の山の名?)に旅行したとき、

 海に出かけたことがあるという方士たちについて〔その真偽のほどを〕
 
 取調べ、上郡(陝西省北部から内蒙古のオルドスにわたる土地)を

 通って帰った。

 また5年後に、始皇は南方へ旅行して

 湘山(湖南省湘陰県の北、青草湖にのぞむ青草山)に着き、

 それから会稽山(浙江省紹興県の東南13里)に登り(禹を祀った)、

 海辺に沿って歩きつつ、かの三神山の奇薬に出会いたいものと

 心に願ったのであるが、手に入らず、帰途、

 沙丘(河北省平郷県の東北)に着いた時に亡くなった。

  二世の元年、〔二世皇帝は〕東方へ旅行し、碣石を廻り、

 海に沿って南下して泰山を経て会稽に行き着いた。

 どの山でも礼に則ってお祀りを行い、

 始皇帝が立てた碑文の傍らにまた文を刻みつけて、

 始皇帝の功業と徳を顕彰した。

  その年の秋、諸侯が秦に背き、

 3年経って二世は弑(し)せられて亡くなり、

 始皇が封禅を行ってのち12年で秦は滅びた。

 儒者たちは、秦が『詩』『書』を火にくべ、

 文学の士を殺したことを憎んでいたし、

 世をあげて秦に背いたのであった。

 そのとき皆が、

 「始皇は泰山に登った時に暴風にうたれて封禅できなかったのだ」

  などといい加減なことを言いふらしたものだが、

 始皇こそは、世にいわゆる、それだけの徳もないくせに、
 
 実行にうつしたものなのであろうか。


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱


 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿