2015年1月4日日曜日

封禅書(10)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦


 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑦

 〔始皇の封禅〕

  帝の位について3年たつと、東の方へ郡県の巡視にでかけ、

 騶(故城の位置は山東省鄒県の東南)の嶧山でまつりをして、

 秦のいさおしを褒め称えた(碑を立ててその文を彫り付けた)。

 それから斉、魯の地方にいる儒者や博士たちを召しよせてお供に従え、

 泰山の麓に到着した。

 すると儒者たちのなかには、
 
 「古は、封禅の時には蒲で車輪を包んだ車を用いたちいうが、

  それは山の土や石、

  草や木を傷めては具合が悪いと思ったからである。

  地を払っておまつをする時、席には皮を剝いだ藁で覆った荒菰を

  用いたというが、

  それは〔まつりが〕行い易いようにする気持なのである」

 などと意見を述べる者があった。

 この建議が始皇の耳に入ると、人毎に食い違っていて、

 とても実施できたものではないと思い、

 このことがもとで儒者を退け、そしてさっさと車道を切り開いて、

 泰山の南から登って、頂に着き、碑を立てて秦始皇帝の徳を讃えた。

 自分が封のまつりをすることができたのを明らかにしたのである。

 〔その後〕北側の道をとって下山し、梁父山で禅のまつりをした。

 その時の礼は太祝(周の時まつりを司る官)が雍で上帝をまつるのに

 用いた仕方を、かなり多く採り入れたのであったが、

 封をしてしまいこみ、すっかり隠してしまったので、

 当時の人は記録しようにもその機会がないままに果たせなかったのである。

  始皇が泰山に登った時、坂の最中で暴風雨に出遭って、

 大樹の下に雨宿りした。

 多くの儒者たちは退けられていて封のまつりを執り行なう礼に

 預からせて貰えなかったので、始皇が風雨にあったと聞くと、

 〔それ見たことかと〕誹ったものである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ
  

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