2014年9月13日土曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(32)九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか

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 銅鐸の古代呼称が判明した(32)九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか

 ではその九州の勝者・銅剣人とは何者だったのか?。

 和辻氏はそれが邪馬臺(だい)国だという。

 なぜなら当時、強大だった邪馬臺国が征服されたのなら、

 それこそ大きな伝承となって残らねばならないが、

 そんな記録も形跡もない。

 それなのに邪馬臺国の名が3世紀以後は、

 完全に消えてなくなってしまった。

 いったいどうなったのか?。

 その後に全国を統一した「大和」政権が現われている。

 「ヤマト」という名は九州で生まれた名で、

 九州の邪馬臺国が奈良に

 「東遷(とうせん)」したことを示す一つの証拠である。

 といっている。

 これも「邪馬臺国大和説」と見出しをつけることができるので、

 ずいぶん紛らわしいが、

 実際には

 「邪馬臺国は九州にあったが、東遷して大和になった」

 という説で、

 正しく分類すれば、「邪馬台国九州説」の1つである。
 
 この説は『魏書倭人章』が

 書いた壹與時代までは邪馬臺国は九州にあったが、

 壹與以後の無記録の時代に、

 奈良の銅鐸人を征服して移住し、

 大和朝廷を残したという説である。

 うっかりしていると、

 その先頭に立って奈良へ攻めこんだのが

 神武天皇だったような錯覚に陥るが、

 そのとき滅ぼされたのは、

 壹與時代以後まで奈良で続いていた銅鐸人の政権であり、

 その銅鐸人は、

 その時まで奈良に君臨していた

 神武天皇の子孫だったということになる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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