2014年9月12日金曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(30)天皇家の信仰の本質と成長過程

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 古代史ブログ講座

 銅鐸の古代呼称が判明した(30)天皇家の信仰の本質と成長過程

 こうした事実と、

 これまで見てきた我が国の古代信仰の遺物とを考え合わせると、

 皇室の信仰は、まず古くシュメルに始まった宗教だった。

 それは「スメロギ=シュメール王(ギ)」という称号その他の遺物が、

 バビロンの滅亡で四散したカルデア人=カリエン人の一部が

 台湾・沖縄に宝貝王国を建設して栄えた事実を、

 歴史と大量の遺物、文化財が教えている。

 次いで、

 紀元前4世紀にアレクサンドロスの東征を引き継いだギリシャ人が、

 与那国島を皮切りに琉球列島から北上し、

 高族の政権と合体、継承したためギリシャ信仰が重なった。

 またインドからウッタラ第1次仏教宣布団が、

 中国地方から東海に銅鐸時代を展開、

 それと並行してシンドゥ教が広まったあと、

 後漢の孝桓帝、孝霊帝のころ、

 第2次仏教宣布団のソナカが沖縄を経由して南九州に上陸、

 卑弥呼と結婚して仏教をひろめ、ソナカの戦死後、

 卑弥呼を女王とする大倭人達邦が確立して長期政権が続き、

 三国時代の動乱の余波で卑弥呼政権が敗北移動した後も、

 さらに様々な政変はあったが、倭国は所を変えて存続し、

 次第に東遷して近畿に至り、

 聖徳太子時代を頂点とする仏教時代を現出、

 大化政変以後もなお仏教の様々な教義を加えて

 渾然(こんぜん)と一つになったものなのである。

 皇室の信仰を「神道」と呼ぶのはいいが、

 それをシンドゥ教だけだとするのは大きな誤りである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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