2014年9月8日月曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(21)倭人=古墳人は確定的

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 銅鐸の古代呼称が判明した(21)倭人=古墳人は確定的

 倭人が塚を造った事実は、

 卑弥呼の死後にも彼女のために「大作冢 径 百余歩」と書いてある。

 「一歩」というのは魏の尺度で今の140cmだから

 「百数10mの長径をもつ大きな塚、

  すなわち古墳を大がかりに造った」というのである。

 それ以後の天皇家は間違いなく古墳を造る人々だから、

 その卑弥呼の古墳を造った人々と

 同じ習俗をもった人々だったことは疑いない。

 もちろん一般の国民はそんな大古墳は造れないが、

 小さくてもやはり塚を造る人々だったことはその記事でわかる。

 そして同じ習慣は、

 死者を土葬する地方では昭和時代になっても続いていたし、

 天武天皇と持統天皇夫妻は、

 火葬でありながらやはり古墳形式の墓になっている。

 しかし塚と古墳は銅鐸を使っていた先住民・ヤオ人たちも造っていたから、

 これで人種を特定することはできない。

 では「鬼道は仏教か?…」という問題はどうすれば解けるか?。

 それは次の記事が完全に立証していることを見逃してはならない。

 ①「始死停語喪十余日(家族が死ぬと先ず仕事を

   全てやめて十余日の喪に服し始める)

   当時 不食肉(その服喪中は動物の肉に類するものは食べない)

   喪主 哭泣(喪主は大声を挙げて泣く①「儀式」を続けるが)

   他人 就歌舞飲酒(他人は酒を飲んで歌い、踊ったりして脹やかに騒ぐ)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

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