2014年9月1日月曜日

銅鐸の古代呼称が判明した(10)インドからの古代文明

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 古代史ブログ講座

 銅鐸の古代呼称が判明した(10)インドからの古代文明

 インドが早くから文明の開けた亜大陸であったことは、常識である。

 東南アジアには各地にインド人を王にいただく国々が、

 近世まで栄えていた。

 日本も仏教の大きな影響下に成長したことを疑う人はいない。

 いうまでもなく仏教もインド文化である。

 ところが、そのことが日本人のルーツを、

 わかりにくくし、邪魔になっていた。

 なぜなら祇園祭りのような行事は、

 仏教といっしょにはいってきたものと錯覚されて、

 深く考えてみようとはせず、

 いまだにそう信じきっている学者さえあるほどである。

 しかし、写真ページで見ていただいたように、

 すでに縄文時代から、

 インド系の信仰が中国、日本に広がっている。

 それは何も不思議ではない。

 もっと早く、もっと遠くのメソポタミアから、

 農耕文化がセットになって、

 中国東部へ流れこんでいたのだから……

 (日本人のルーツ:76ページ参照)。

 また弥生時代には、

 水稲や銅鐸といったインド~東南アジア文化が、

 はっきりした遺物を大量に残している。

 これを文化だけが伝わったとするには多くの無理がある。

 どうしても民族が、肉体ごと移住してきたと考えるほかない。

 なぜ、インドがそんな移民を送り出したのか、

 答えは簡単である。

 インドは現代でさえ、

 あふれる人口をどうすることもできないでいる。

 産児制限を知らず、

 しかも繁栄を極めていた時代には、

 人々は東へ西へとあふれ出るほかなかった。

 当時の日本列島だけ嫌われたとは考えられない。

 ※出典:加治木義博『日本人のルーツ』132頁

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

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