2014年7月6日日曜日

豊木入日子命・豊城入彦尊①


 古代史ブログ講座

 《古代史ブログ講座》一之宮貫前神社・富岡製糸場・龍光寺
  出典:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 《豊木入日子命・豊城入彦尊①》

 (1)『古事記』

 原文  御眞木入日子印惠命 崇神天皇(第十代)

 御眞木入日子印惠命 坐師木水垣宮 治天下也 此天皇 娶木國造 

 名荒河刀辨之女刀辨二字以音 遠津年魚目目微比賣 生御子 豐木入日子命 

 次豐鉏入日賣命二柱  又娶尾張連之祖 意富阿麻比賣 生御子 大入杵命 
 
 次八坂之入日子命 次沼名木之入日賣命 次十市之入日賣命四柱 

 又娶大毘古命之女 御眞津比賣命 生御子 

 伊玖米入日子伊沙知命伊玖米伊沙知六字以音  

 次伊邪能眞若命自伊至能以音 

 次國片比賣命 

 次千千都久和此三字以音比賣命 

 次伊賀比賣命 

 次倭日子命六柱  

 此天皇之御子等 幷十二柱男王七 女王五也 故

 伊久米伊理毘古伊佐知命者 治天下也 

 次豐木入日子命者上毛野君 下毛野君等之祖也 

 妹豐鉏比賣命者拜祭伊勢大神之宮也  

 次大入杵命者能登臣之祖也 次倭日子命此王之時 始而於陵立人垣


 訳 御眞木入日子印惠命 崇神天皇(第十代)

 御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)は

 師木水垣宮(しきのみづかきのみや)に都を定めて、天下を治められた。

 天皇が木國造(きのくにのみやつこ)の荒河刀辨(あらかはとべ)

 刀辨二字以音の娘の遠津年魚目目微比賣(とほつあゆめまくはしひめ)を

 娶って生まれた御子は、豐木入日子命(とよきいりひこのみこと)、

 豐鉏入日賣命(とよすきいりひめ)二柱である。

 尾張連(をはりのうらじ)の祖の意富阿麻比賣(おほあまひめ)を

 娶って生まれた御子は、大入杵命(おほいりきのみこと)、

 八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)、

 沼名木之入日賣命(ぬなきのいりひめのみこと)、 

 十市之入日賣命(とをちのいりひめのみこと)四柱である。

 大毘古命(おほびこのみこと、孝元天皇の子)の娘の

 御眞津比賣命(みまつひめのみこと)を娶って生まれた御子は、

 伊玖米入日子伊沙知命伊玖米伊沙知六字以音(いくめいりひこいさちのみこと)、 

 伊邪能眞若命自伊至能以音(いざのまわかのみこと)、

 國片比賣命(くにかたひめのみこと)、

 千千都久和此三字以音比賣命(ちぢつくわひめのみこと)、

 伊賀比賣命(いがひめのみこと)、 

 倭日子命(やまとひこのみこと)六柱である。

 天皇の御子等は皆で十二人男王七人、女王五人である。

 そこで、伊久米伊理毘古伊佐知命が天下を治められた。

 豐木入日子命は

 上毛野君(かみつけののきみ)・

 下毛野君(しもつけののきみ)らの祖である。 

 妹の豐鉏比賣命は伊勢大神之宮(いせのおほかみのみや)にお仕えしお

 祀り申上げた。

 大入杵命は能登臣(のとのおみ)の祖である。 

 倭日子命はこの皇子の時に、初めて、山陵に人々を殉死させた(メモ古1001)

 (2)『日本書紀』御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇

 ・元年二月十六日 

 ・紀伊國の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の

  遠津年魚眼眼妙媛(とほ つ あゆ め まく はし ひめ)

  大海宿禰(おほしあまのすくね)の娘の

  八坂振天某邊(やさかふるあまいろべ) とも云うが、

  豐城入彦命(とよきいりびこのみこと)・

  豐鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)を生む

 崇神48年

 ・正月十日

  子の豐城命(とよきのみこと=崇神元年二月の条参照)と

  活目尊(いくめのみこと=崇神元年二月の条参照)を呼び、

  「私は、お前たちを同じように愛しているので、 

  どちらを嗣((日嗣)ひつぎ=皇太子

  ((私注)天皇をさす場合もあります))にしたらよいのか

  判らないでいる。

  そこで、お前たちが見た夢で占いをしようと思う」と申された

  二人の皇子は、浄沐(ゆかはあみ=所謂、齋戒沐浴)し、

  お祈りをしてから眠り夢を見られた。 

  兄の豐城命は「御諸山

 (みもろのやま=三輪山=崇神10年の条で大物主神が帰られた山)に登り、

  東に向いて、八回槍を突き出し、

  八回刀を振るう夢をみました」と申し上げ、

  弟の活目尊は「御諸山の嶺に登り、縄を四方に張り、

  粟を食べる雀を追い払う夢を見ました」と申し上げた。

  そこで、

  「兄は東だけを向いていたので、東國(あづまのくに)を治めよ。

   弟はあまねく四方に臨んでいたので、私の位を継げ」と申された

 ・四月十九日

  活目尊を皇太子(ひつぎのみこ)とされた豐城命には東國を治めさせた。

  豐城命が、

  上毛野君(かみつけののきみ)と

  下毛野君(しもつけののきみ)の始祖である

  出典:さわださんちが天皇の事績を中心に日本書紀・古事記を訳した頁です


 (3)『延喜式神名帳』

   下野國河内郡 1座(大)
 
   二荒山神社名神大 「フタアラノ」「フタラノ」)

  「全国神社名鑑」(現)二荒山(ふたらやま)神社 栃木県宇都宮市馬場通り

  祭神 豊城入彦命、大物主命、事代主命

  由緒 延喜の制名神大社に列し、当国一の宮であると伝える。

     仁徳天皇の時代で、毛野国を上下二国に分かち、

     豊城入彦命の四世の孫奈良別王が初めて下野の国造に任ぜられた。

     よって二荒山の北丘に鎮まる祖神豊城入彦命を国社として

     今の摂社下宮の所在地なる南丘荒の尾崎よりこれを拝し、

     この王の子孫が長く奉仕せられた。

     その後下毛野氏の子孫が繁栄して各地に移住し各所で

     その祖神を祭った。

     永和5年本社の二荒山の南丘なる下宮より

     この北丘の現地に遷座し、以来武将の尊崇が深かった。

 宇都宮二荒山神社

 《参考》


 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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