2014年3月10日月曜日

高麗神社


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 高麗神社:Wikipedia

 高麗神社:ホームページ

  出典:高麗神社:ご案内

 『神事』

  元旦祭     1月1日
 
  桜祭      4月第1日曜

  建郡記念祭   5月16日

  夏越しの払い  6月下旬の日曜日

  例大祭    10月19日

  菊花祭    11月3日

 『祈願』

  出世開運

  家内安全

  商売繁盛

  合格祈願

  交通安全

  お宮参り

  七・五・三参り
   
  厄徐祈願

  方位除け


 高麗王若光の供養塔(聖天院境内)

  高麗の

   こきし

  若き光の

    導きに
  
    むさし大野は
 
    ひらけそめけむ

  若光王の高麗郷入りを
    おもひ出し詠める
     甲鳥園主人 五十嵐 力

 『高麗郷の歴史』

 「高麗郡の設置」

  奈良時代の歴史書『続日本紀』

 元正天皇の霊亀二年(716年)五月の条に、

 駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)

 常陸(茨城)下野(栃木)七か国の高麗人千七百九十九人を

 武蔵国(埼玉)に移して高麗郡を置くとあります。

 当時、関東甲駿地方に高麗人が散在していたこと、

 これを武蔵国に集めて高麗郡を設けたことがわかります。

  当時の高麗は正しくは高句麗のことで、

 新羅滅亡の後朝鮮半島を統一した高麗とは別の国です。

 「高麗(高句麗)の建国滅亡」

  高句麗は紀元前一世紀、中国の東北地方に興り、

 朝鮮半島の大半を有して平壌に都し、

 中国文化を取り入れた強大な先進国でした。

 しかし、建国から七百余年、

 天智天皇の七年(668年)唐と新羅によって亡ぼされました。

 わが国とは古くから盛んに往来があり、

 文化や産業の上に大きな貢献があったことが

 日本書紀などに記されています。

 「高麗人の渡来と安住の地高麗郷」

  高句麗滅亡のとき難を避けて多くの王族や遺臣が

 わが国に亡命して各地に散在していました。

 一地域に集めて安住させるのが渡来人を遇する途として、

 新たに高麗郡が置かれました。

 高麗郡は郡の中心となしていました。

 ※高麗郡の名はおよそ千二百年の間、

  武蔵国高麗郡として広く親しまれて来ました。

  しかし、明治二十九年(1896年)郡の改編によって廃されました。

  高麗神社の鎮座する旧高麗村は

  現在の埼玉県日高市の西部を占めています。

 『高麗神社の由来』

  「郡の首長高麗王若光」

  高麗郡が設けられたとき、

 その郡を治めたと伝えられるのは高麗王若光です。

 若光については、

 『続日本紀』文武天皇の大宝三年(703年)の条に、

 従五位下の高麗王若光に王姓を賜うとあり、

 すでに位を授けられさらに王姓を賜ったのは、
 
 若光が高句麗の王族であったので特に優遇され、

 後に郡の統治を任されたものと考えられます。

  「高麗神社の創建」

  安住の地は与えられものの、

 国の中央から遠く離れた辺境の地、

 武蔵国の一角に移された郡民の困苦は

 深刻なものであったと思われます。

 郡民の生活を託された若光は、

 今の高麗神社の辺りに居を定めて郡民を督励し、

 祖国の技術をもって荒野を開き産業を興して民生を安定させ、

 郡民敬慕をのうちに波瀾に富んだ生涯を終えたと伝えられています。

 郡民がその徳を偲びその霊を祀ったのが高麗神社の始まりです。

  祭神である高麗王若光の子孫は代々当社の宮司をつとめ、
 
 現に六十代におよんでいます。

 同家には古くから伝わる系譜「高麗氏系図」があり

 次の前文が書かれています。

 (前文の始めの部分は欠落しています。系譜はすべて漢文体です。)

  これにより従来の貴賎相集まり屍を場外に埋め、

  且つ神国の例により霊廟を御殿の後山に建て高麗明神と崇め、

  郡中に凶あらばすなわちこれを祈るなり。

  長子家重世を継ぐなり。

   天平勝宝三年(751年)辛卯、僧勝楽寂す。

  弘仁とその弟子聖雲同じくして

  遺骨を納め一字を草創し、勝楽寺という。

  聖雲は若光の三子なり。

  これによって当社と勝楽寺の由来を知ることができます。

 およそ千三百年前に創建された社寺の由緒が、

 史書や文献によって

 これ程明らかにされている例は珍しいとされています。

  極楽寺は当社に近く聖天院の名によって広く知られる名刹で、

 新義真言宗智山派に属し、

 法灯は連綿五十世にわたり継承されています。

 その山門のかたわらに若光の供養塔があります。

 砂岩を重ねた多重塔で素朴なものです。

 「白髭神社と出世明神」

  文献によれば武蔵国(埼玉・東京)の各地に

 白髭神社或いは白髭明神と呼ばれる社が五十五社あり、

 これはみな当社の分社であり、

 当社を高麗惣社と称したとあります。

 若光が晩年白髭をたくわえ、

 白髭さまと親しみ尊ばれていたので、

 当社に白髭明神という別の社名が生まれたとされています。

 後年、高麗人の子孫が各地に分住し、

 高麗郡の例にならってその地域の開発を行い、

 若光の遺徳を敬慕してその霊を分祀したものと思われます。

  また当社は、出世・開運の神として広く崇敬を集めています。


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