2014年1月21日火曜日

千鹿頭神へのアプローチ(2)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
 Matのジオログ

 諏訪大社
 諏訪大社

 『武蔵一宮:氷川神社』
 Wikipedia:氷川神社
 Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 出典:野本三吉・「諏訪信仰の発生と展開」古部族研究会編188~200頁:永井企画

 千鹿頭神へのアプローチ(2)

 Ⅰ.洩矢神から千鹿頭神へ(2)

  こうして、実質的に神長家の解体が進行し、

 神長実久氏には子供が恵まれなかったこともあり、

 実久氏は、「一子相伝」を全て受け継いだ最後の人として、

 文献の整理と口碑の文章化をはじめたのである。

  こうして、神長実久は、

 祖先の口伝も血詞をはじめて文字化したのだが、

 神長系譜としての「実久系譜」を完成させたところで、

 亡くなったのであった。

 時に明治33年7月13日のことである。

  残念なことだが、

 神長口伝の御室神事・御射山神事等の秘伝は、

 こうして永遠に伝えられることはなくなってしまったのである。

  この「実久系譜」によれば、

 「一子相伝」の「血詞の骨子」は、

 次のようにはじまっている。

  洩矢神……洩矢ノ神―守宅ノ神後ニ守田ノ神―千鹿

 頭ノ神―児玉彦命―八櫛ノ神―美射津彦神―大嶋

 辺神―安賀多彦―宮戸守―宮田守……

 このようにして76代の神長真幸氏まで

 この系譜は続くのである。

  ここで気になるのは、洩矢ノ神から守宅・守田ノ神に

 なっているくだりである。

 守田とか守宅というかぎりでは、農耕的な感じがするし、

 その後に、いかにも狩猟的な千鹿頭神がつづくあたりが、

 どうにも納得がいかない。

 その点について、特に「血詞ノ古代ヲ註ス」という文章が

 つけ加えられており、

 「守宅神」から「千鹿頭神」を経て

 「児玉彦命」に至る経過が述べられている。

 「守宅神」後ニ守田ノ神ト云フ。生レテ霊異幹力アリ、

 父ニ代リテ弓矢ヲ負ヒ大神ニ従ヒ遊猟シ千ノ鹿ヲ得。

 一男アリ、コレニ名ヅケテ「千鹿頭ノ神」ト云フ。

 「千鹿頭神」継イデ祭政ヲツカサトル。

 (古代神楽歌=千鹿頭ノキタノハヤシノススムシワ、

  ススムシワヤチヨノコエテツネニタイセネ。

  千鹿頭ノ明神シヤウシウレシトオホスランン、

  ユキタイマノハナノキヨメヨ。)

 筑摩郡、神田、林三十余村、

 鎮守ナリ同地宇良古山ニ鎮座ス。

 后神ヲ宇良子比売ト伝フ。

 「児玉彦命」大神ノ御子片倉辺命ノ御子也。

 大神ノ御辞言ノマニマニ

 千鹿頭神ノ跡ヲ継イデ祭政ヲツカサドル。

 守達神ノ御子美都多麻比売ヲ娶リテ八櫛ノ神ヲ生ム……

  これを系図的に表わせば、次のようになる。

 洩矢民族……洩矢神―守宅神(守田ノ神)―千鹿頭神―

 建御名方命―片倉辺命―児玉彦命―八櫛(やくし)神……

  千鹿頭神―児玉彦命―八櫛(やくし)神……

 建御名方命―守達ノ命―美津多麻比売―八櫛(やくし)神……

 「実久系譜」の「血詞ノ古代ヲ注ス」を注意深く読むと、

 まだ守宅神は、明確に狩猟神であることがわかる。

 千の鹿を取るほどの剛の者なのである。

 だからこそ、自分の子供に「千鹿頭神」と名づけている。

 ところが、

 この「千鹿頭神」から、次の「児玉彦命」は、「片倉辺命」の子であり、

 「片倉辺命」は建御名方命の子供なのである。

 つまり、この段階で、少なくとも、

 土着の洩矢神は血族的には断絶したといってよいのであろう。

 「一子相伝」も含め、建御名方系の民族との融合が、

 ここで行われていることは明白なのである。

  だとすれば、千鹿頭神はどこへ行ったのであろうか。

 この系譜上から言えば、洩矢神の直系といえば千鹿頭神は、

 后神に宇良古比売を娶って、

 筑摩郡の宇良古山に移ったと書かれている。

 いわば、追われたのである。

 あるいはまた、自ら、融合を嫌って、

 この地を離れたということになるのであろうか。

  皮肉なことに、古代神楽歌の中に千鹿頭神は、

 讃えられ慰められているのである。

 これだけの賛辞を送らなければならなかった何かが、

 やはり、この千鹿頭神の離脱に関するドラマにはあったに違いない。

  そのことで思い出すのは、茅野市埴原田(中山埴原)にある

 「千鹿頭神社」のことである。

  このあたりは、背後に山をひかえ、

 なだらかな丘陵地帯であるうえに、

 上川など河川にも恵まれているのである。
 
 このあたりを、通称、山鹿郷の「鬼場」というが、

 これは「御贄場」の変化したものであって、

 原始狩猟民にとって絶好の狩場であり、

 それだけに山の神に山野の獲物を捧げた

 御贄場であったろうと想像できるのである。

  従って、本来は、

 ここは「千鹿頭神社」が中心になるべき地形なのである。

 ところが、この鬼場の中心には、

 御座石神社が祀られているのである。

  「御座石神社」は、高志(越)の国から、

 母親の高志沼河比売命を諏訪に呼びよせ、

 この地に迎えたとされており、祭神は、沼河比売命なのである。

  そして、この御座石神社境内のつづきには「八櫛神社」があり、

 あわせて埴原田村の鎮守となっているのである。

  そして、やや離れた上川のほとりに「千鹿頭神社」があり、

 その近くには「社宮司」もまつられてあった。

  いわば、山の贄、川の贄を捧げていた、

 御贄場としての「千鹿頭神社」が後に侵入しきた建御名方や、
 
 その母親をまつった「御座石神社」や、

 その御子神である八櫛神を祀った「八櫛神社」に

 とってかわられていったプロセスがわかるような気がするのである。

  そう考えてくると、国津神・洩矢の系譜は、

 建御名方との融合政策の中に組み込まれつつも

 執拗に「洩矢」の心を受け継いできた、

 神長守矢氏の流れと、「千鹿頭神」として途中から、

 諏訪を離れた、

 いわば洩矢民族の直系としての「千鹿頭民族」とでも呼ぶべき

 二つの流れとなっていることに気付かされるのである。

 そして、興味としては、

 姿を消していった「千鹿頭神」を

 祀る人々の行方に関心がゆくのである。

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

0 件のコメント:

コメントを投稿