2014年1月17日金曜日

御柱のはじまり


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 諏訪大社
 諏訪大社

 『武蔵一宮:氷川神社』
 Wikipedia:氷川神社
 Yahooh検索『武蔵一宮:氷川神社』
 武蔵一宮:氷川神社・境内案内

 《出典》「諏訪大社の御柱と年中行事」:154~157頁
      宮坂光昭・郷土出版社
      
 「御柱のはじまり」―源流は縄文の柱立てまつり?

 「おんばしらは日本の大祭」

  御柱年の前年、おんばしらはもうはじまっている。

 前年五月には具体的な御柱木の切倒しが行われる。

 すると、もう、諏訪郡市民は熱中しはじめ、

 若者の中にはヒゲをのばすもの、頭髪を長くするものも現れる。

 御柱に乗ろうとする人は日頃の生活を精進潔斎に切り替える。

  家の新築、増改築、結婚式も御柱年をさけ、

 前年中に行う人が多くなる。

 これを諏訪大社の「物忌令」という

 中世の禁忌の伝承とする考えの人も多いが、

 実際には御柱年は祭りに費用がかかるし、

 都会に出た親類の帰省客も多くなるからである。

  御柱祭は大社の「おんばしら」を口火に、

 地域の産土社、地区の鎮守、親族巻の祝神や、

 小さな神社にいたるまで、秋にかけて一年中行われる。

 いうなれば地縁という土地につらなる共同体と
 
 血縁という親類一族の団結力によってなしとげられる祭りである。

  この大木を曳き建てて祀る諏訪神社を、

 古代の中央政権は東国の荒ぶる神とみており、

 諏訪神を一致団結して祀る

 その土地の集団の団結力を驚異な集団とみていた。

 古代から諏訪湖には

 不思議な御神渡という氷裂現象のある事も知られており、

 神の国視されている。

  このような「おんばしら」は、日本で唯一の祭りであり、

 地縁・血縁の祭りとして、日本の代表的な大祭である。

 「200回目のおんばしら」

  おんばしらの起源は不明である。

 いつ創設されたという記録はない。

 また何本曳き建てたかもわからない。

 中世の記録である『諏方大明神画詞』に、

 「寅申の干支ニ当社造営アリ」とあって、

 既に完成された祭りの姿として続いてきているとある。

 従って、おんばしらは、古代、あるいは縄文時代の柱立てまつりに

 源流を求めることができるかも知れない。

 『画詞』によると、「当社造営 桓武ノ御宇ニ始シリ」とし、

 これが記録上の最初である。

 桓武天皇の平安時代は、東国エゾ征伐に力を入れた時代であり、

 何回もの戦闘をくり返した。

 征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命し、田村麻呂は征旅の途中、

 東国第一の諏訪神社に戦勝を心願し、エゾを平定した。

 帰京後、田村麻呂は勝利は諏訪神社の加護と奏上、

 朝廷からも神事料が下された。

  桓武天皇時代に諏訪神社の御造営の費用を

 信濃国中に永代の役と定めたとあるが、

 田村麻呂軍に協力するためと考えられる。

 この時の寅年は延暦十七年(798)で、

 これを記録上最初の御造営はと考えると、

 平成四年(1992)のおんばしらは、200回目となる。

 「正式名称は」

  御柱祭の正式名称は、諏訪神社の「式年造営」である。

 式年つまり干支の寅(とら)と申(さる)年の七年目ごとに、

 上社と下社の宝殿をはじめ、

 いくつもの建造物を建て替えることである。

 『画詞』をみれば、

 「この年暦に当たれば初春から、国司目代、

  巡役の官人を任命し、御符(みふ)を発行し、

  国中の要路に関をおき神用として費用を集める。

  一国の人々、諸種の工人を集め建築する。

  氏子は、金持も貧者も家の新築・改修をせず、

  材料を他国へ出さず、数十本の御柱上下の大木、

  一本につき千人余の人々により奉仕する。

  これに加えて、元服・婚礼ともこれをつつしみ、

  違反の者には神罰が必ず下される。

  御柱祭は、はじまっていらい、

  その年中に必ず行った」とある。

  これをみると、

 古代から七年目ごとの御宮造りに材木を曳き出して社殿造営用にした。

 そして神の降り給うと考えられた磐座(いわくら)あるいは古木を中心に、

 二つの宝殿の周囲に御柱を建てたのである。

 《Key Word》

 御柱祭 

 御柱

 『諏方大明神画詞』

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